本棚の整理をした。
目の前がすっきりすると仕事もはかどる。
というのは言い訳でひたすら時間だけかかる作業に取り掛かるのが億劫で
逃避に片付けたのだろう。
片付けが終わってしまい、ひたすら時間だけかかる作業に取り掛かる。
紙をちょうど半分に折り続ける。
一時間。
あとどのくらいか。
軽く見積って、まだ1300枚くらいは残っている。
余計なことばかり思い出して考えてしまう。
目の前に『一年一組先生あのね』という本が見えた。
フォア文庫、男の子の笑顔の写真が背表紙に見える。
手に取った。
適当に開く。
一行、
二行、
三行。
四行、
五行、
六行、
号泣。
某児童文学の小説家の追悼番組を思い出した。
小説家の元奥さんが出ていて
子ども産むなって言われちゃってね、というようなことを言っていた。
それで離婚してしまったのらしい。
明るい感じの方だった。
柳美里が出ていて
その小説家の「自己嫌悪」であったか「自己否定」であったか
そんなことについて語っていた。
小説家の知人で、私の友人でもある女性がそのことについて
柳美里のことを憤慨していた。
自分は子どもが居るからと勝ち誇っている、上から目線だ、と。
面と向かって喋れなかったくせに今になって好き勝手言ってるんだ、と。
しかしながら。
小説家の小説はあたたかく美しく人間らしい小説であったが
それは、読む人の人生をえぐるようなところがあった。
絶望的な気分にもさせた。
途方もない悲しみが描かれていた。
そこに命のきらめきがあった。
生きていることを幸福に思わせた。
もっと生きたいと、愛したいと思わせた。
それはどうにも、そのおそらく柳美里の謂うような非常に激しい自己否定から
生まれ出てきた湧水のようなもんだったではないだろうか。
水は流れしみわたり、列島中の沢山のひとに愛され
また、
沢山の命を育んだように思う。
有名になったから
小説家の言説に、週刊誌がとやかく書いたりしていた。
顔も知れて(ちょっと個性的だったし)、本人のひととなりも注目された。
それでも決して濁らない水。
(ひととなりがマズかった訳ではないですよ。)
清冽で冷たく湧きたての美味しい水。
今日は死んだひとのことばかり思い出すな。
さっきまでフィリピンパブのホステスの笑い声ばかりだったが
朝日が眩しい、子どもの声が聞こえてくる。
母親か近所の人かに怒られている。
どうか誰もがどうにもならなかったことで自分を責めたりしませんように。
身近なひとだったとしても、きっと私はそこから救い出せない。
本人にしか分からない。
自己否定というのは、自己を他人に幾ら肯定されても無くならない。
なかなか無くならないのらしい。
追悼番組は
元妻が出ていて親友が出ていてご兄弟(ご姉妹)が出ていて
皆、にこやかに出ていて愛されていたのがよく見えた。
きっと愛して、愛されていたのだろう。
私も有り丈愛そう。
目の前がすっきりすると本の背表紙が見えて仕事がはかどらない。
私は「片付けられない女」なので
これからは片付けると気が散る、と言い訳して生きていこう。